キャプテン・ビーフハート
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THE CAPTAIN BEEFHEART CLUB
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キャプテン・ビーフハートキャプテン・ビーフハート
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ビーフハート
キャプテン・ビーフハートとは
ビーフハート

本名、ドン・ヴァン・ブリート。1941年、ロサンゼルス郡グレンデイル生まれ。幼少の頃から芸術的才能を発揮し、彫刻コンテストでは最優秀賞を獲得する程だった。
フランク・ザッパとは高校時代の友人で、ザッパにバンドに誘われたのがきっかけで音楽活動に目覚めた。
1965年にデビュー。ロック、ブルース、フリージャズなどの音楽要素を高度にミックスしたサウンドを特徴とし、1969年発表の代表作『トラウト・マスク・レプリカ』は、アヴァンギャルド・ロックの最高峰として余りにも有名である。
トラウト・マスク・レプリカ
誰も知らないどこでもない場所にあなたをトリップ!
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バイオグラフィー

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なんだこれは!?

聴くものを原始人化してしまう稀代の芸術家、キャプテン・ビーフハートの軌跡

キャプテン・ビーフハートことドン・グレン・ブリートは、1941年1月15日、ロサンゼルス郡グレンデイルにひとり息子として生まれた。後に自分は、17世紀を生きた同性のオランダの画家で、レンブラントと同輩のヘンドリク・コルネリス・ヴァン・ブリートの末裔と称し、ドン・ヴァン・ブリートに改名をした。

幼い頃から芸術的才能を見せ始め、動物や恐竜の彫刻作品を創作していたという。ブリート一家は自宅のすぐ近くにあるグリフィス・パーク内の動物園に、よくドンを連れて行っていた。そこでドンは動物のスケッチをしていたのだが、その様子をみていたポルトガル系の彫刻家、アゴスティーニョ・ロドリゲスがドンの才能にいち早く気がつく。ロドリゲスはドンの両親に、息子さんを自分に預けて欲しいと提案し、ドンはロドリゲスに弟子入りすることとなった。9歳の頃には、この動物公園で行われている粘土彫刻教室の展覧会で見事、最優秀賞に輝いている。

13歳の時、クヌーセン乳業という会社からヨーロッパで彫刻を学ぶための奨学金を受けることになり、16歳で留学する予定であったが、実現はしなかった。ドンの説明によると、すべての芸術家はホモだと考えていた両親が、息子を案じ留学を断ったという。

やがて、一家はランカスターへと引っ越した。高校に入学したドンは、そこで終生のライバル、フランク・ザッパと出会う。ドンは自宅でザッパと2人で、よくドゥーワップやブルース、R&Bなどのレコードを聴きまくっていたという。音楽は大好きであったドンだったが、恥ずかしがりやであったため、きちんとした演奏に加わることは嫌がったという。ザッパが無理矢理ドンに初録音をさせたのは1958年か59年のことだった。

10代後半から20代前半にかけては、いくつもの職を転々としていたが、後にザッパが結成したザ・スーツというバンドではボーカルをつとめている。またザッパのスタジオではロック・オペラが計画され、そこでドンが演じる役名が「キャプテン・ビーフハート」だった。この「キャプテン・ビーフハート」という名前は、ザッパによれば、高校時代、ドンの家には両親、ガールフレンド、おじ、おばなどが住んでおり、そのおじがガールフレンドに自分のモノを見せる習慣あり、その彼女に向かって「ああ、ほんとに奇麗だ! まるで大きくて立派な牛の心臓のようだ」とつぶやいていた事に由来するそうだ。

1965年初頭、キャプテン・ビーフハート&ヒズ・マジック・バンドを結成。最初のリーダー格はメンバーを集めたアレックス・セン

ト・クレアーだったが、しだいにドンが最大の力を振るうようになっていった。A&Mからシングルを2枚発売、LAでローカル・ヒーローとなっていく。イギリスの有名DJ、ジョン・ピールはこの頃からマジック・バンドを気に入り、彼らの曲をよくラジオで流していた。

1967年、ブッダからアルバム・デビューとなる『セイフ・アズ・ミルク』を発表。ブルース・ロックをベースとしながらもサイケやソウル、アフリカンなテイストまで滲ませた作品であった。本作からマジック・バンドのグルーブを担うジョン・フレンチ(ds)が参加。また、兼ねてから不満のあったギタリスト、ダグ・ムーンを追い出し、代わりに以前から目をつけていたライ・クーダーが正式加入した。

次にセカンドアルバムとして、『イット・カムズ・トゥー・ユー・イン・ア・プレイン・ブラウン・ラッパー』という仮題が付けられた2枚組LPを制作する予定でレコーディングが進められていたが、企画自体が頓挫してしまう。

その後、改めてレコーディングした音源を、プロデューサーのボブ・クラスノウのレーベル、ブルーサムから『ストリクトリー・パーソナル』(1968)として発売される。これはクラスノウがドンに無

許可でサイケデリックなミックスを施し発売してしまったもので、ドンは不満足だったと言われてきた。しかし現在の情報だと、ドンは最初は気に入っていたのだが、発売後のマスコミに不評だったことから、クラスノウに責任転嫁をしたとも言われている。なお、『ブラウン・ラッパー』での音源は、ブッダがドンに無許可で勝手にまとめて『ミラー・マン』として1971年に発売している。

レコード会社をザッパが作ったストレート・レーベルに移籍し、ザッパのプロデュースで、稀代の傑作『トラウト・マスク・レプリカ』(1969)を発表。このアルバムからビル・ハークルロード、マーク・ボストンが加わり新編成となる。このアルバム制作のためにバンドは9ヶ月間、合宿生活をおくり音楽を練り上げていった。まず、ドンが共同生活の家に、これまで使ったこともないピアノを持ち込み、イマジーネションの赴くままに音の実験をする。それをドラムのジョン・フレンチが音楽的に翻訳し譜面化していくという作曲方法がとられた。アイデアはピアノではなく口笛で伝えられることもあったという。また、オーネット・コールマンの『フリー・ジャズ』を聴いて感銘を受け、自分にも出来ると思い込み、サックスを吹き始めた。こうして出来上がった『トラウト・マスク・レプリカ』は、アメリカでは

ヒットチャートにランクインしなかったが、イギリスでは第21位を記録した。

この歳の秋、ドンはジャンという女子学生と出会い、お互い一目惚れ、数週間後に結婚をする。また、ちょうどこの頃、ドンはザッパを非難するようになっていた。自分の大傑作が真面目に受け止められないのは「フリークス」の一人としてプロモートされているからだ。また、ザッパが自分のアイデアや言い回しを盗用しているとの理由だ。このことでドンとザッパの仲はこじれていく。

そして、次は自身のプロデュースで『リック・マイ・デカルズ・オフ、ベイビー』(1970)を発表。こちらも『トラウト・マスク・レプリカ』の創造性を受け継いだ傑作となった。

レーベルをストレートからリプリーズに移籍し、『ブラウン・スター』『キス・ミー・ウェア・アイ・キャント』なるプロジェクトを進めていたが、結局、このタイトルでは発売はされなかった。その後、『スポットライト・キッド』(1972)、『クリアー・スポット』(1973)を発表。 ブルースへの傾倒が顕著な原点回帰的作品となった。『クリアー・スポット』ではテッド・テンプルマンがプロデューサーを務めている。この頃になると、ピアノでの断片的なフレーズを

元にした作曲方法はしなくなっていたようだ。

『スポットライト・キッド』『クリアー・スポット』で商業的成功を狙っていたのであるが、目標を果たせずリプリーズを離れた。そして次はマーキュリーに移籍。今度も商業路線を目指し『アンコンディショナリー・ギャランティード』(1974)『ブルージーンズ・アンド・ムーンビームズ』(1974)を発表。『アンコンディショナリー・ギャランティード』はそれまでのマジック・バンドを支えた、ビル・ハークルロード、マーク・ボストン在籍の最後の作品となってしまった。

また、『ブルージーンズ・アンド・ムーンビームズ』ではそれまでのメンバー全員に去られ、別のメンバーと録っていたものを、ドンに無許可で編集/発売されてしまったものだった。結局、どちらも商業的には失敗に終わった。

経済的に困窮していたドンを救ったのは、仲違いしていたザッパであった。まず、ザッパの傑作『ワン・サイズ・フィッツ・オール』(1975)にハーモニカでゲスト出演した後、同じくザッパのライブ・ツアーに同行。そこでの成果はザッパ/ビーフハート/マザーズ名義で『ボンゴ・フューリー』(1975)として発表される。

この後、自身のプロデュースで『バット・チェイン・プラー』を制作。このアルバムでは久々に、あのピアノの断片フレーズから作曲する方法が蘇り、ドンの復活をアピールできる作品となるはずだったが、ザッパとレコード会社による契約トラブルにより残念ながらお蔵入りとなってしまった。(2012年にザッパサイド所有のオリジナルマスター音源からボーナストラック3曲入りで公式発売された。)

しかし、メンバーチェンジをし新生マジック・バンドとして再録するなどして、『シャイニー・ビースト』(1978)を発表。フリーキ

ーでかつ以前になかったポップさも加わった傑作となった。その2年後、『ドック・アット・ザ・レイダー・ステイション(美は乱調にあり)』(1980)を発表。こちらも前作に続く傑作となる。そして、最終作となる『アイスクリーム・フォー・クロウ(烏と案山子とアイスクリーム)』(1982)を発表。その後は絵に専念したいとのことで、音楽業界から引退を決意。モハービ砂漠に住み、本名、ドン・ヴァン・ブリートとして画家生活に入ることとなる。2010年12月17日、多発性硬化症とそれに伴う合併症により死去。69歳没。

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その音楽はたしかにマジックだった。
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ディスコグラフィー

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キャプテン・ビーフハート
美は乱調ににあり!
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その音楽はいつまでも異彩を放つ。
タバコを吸うビーフハート
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ビーフハートの言葉

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「俺たちの音楽には、なにかと張り合う要素なんかないんだから、視点とか正当性とかいうもので比較したり、毀損したり、串刺しすることはできないんだ……俺たちの音楽は、完全になにも意味していない。太陽がなにも意味していないようにね。」

「音楽っていうのは、そのほぼすべてが何かからのパクリなんだ。しかし、わたしは無罪だよ…私の音楽にそういう罪はない。」

「音楽とはまるで泥の中で輝くダイヤモンドのようだ。」

「違った魚になりたいというのなら、学校から飛び出すんだな。」

「ビートルズは、みんなをターン・オンしてやりたいと抜かしている。これほどバカげたセリフを、俺は生まれてから一度も聴いたことがないぞ。男であれ女であれ、ほかの人間をターン・オンできるわけがないんだ。空気に触れた瞬間、人間はオンになる。このことを、俺は「フラッシュ・ゴードンズ・エイプ」で言っておいた——『空気のなかで飛びあがり眼を回す/地上に戻ろうとするが、もう地面はない』。他人をターン・オンしてやろうという考え方ほど、特権的な立場から人を見下したものはないね。」

「音楽より絵のほうが好きです。一日中キャンバスに向かって描けるし、その絵を後から消すこともできるし。それをまた描き直すという行為こそ、真に美しいセンセーションだ。」

「絵を描くということは、色つきの拘束衣みたいなもんでね。毎朝それを着るのが楽しみになるんだ。」

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THE LEGENDARY A&M SESSIONS

伝説のA&Mセッション〈1984〉

THE LEGENDARY A&M SESSIONS
オリジナル・レーベル:A&M
プロデューサー:David Gates
エンジニア:不明
録音時期:1966年前半
録音場所:サウンド・レコーダーズ
アナログEP盤としての発売:1984年10月

A&Mでの2枚のシングル盤とセカンドシングルの
テスト・プレス盤B面の曲を収めた全5曲

プロデューサーはのちにソフトロック・バンド、ブレッドを結成するデビッド・ゲイツ。

デビューシングルA面となった「ディディ・ワー・ディディ」はボ・ディドリーの曲で、ビーフハートの声がR&B的だったことから、この曲をアレンジして使うことをバンドに提案したという。バンドは一発で気に入ってくれたとのこと。

セカンドシングルA面の「ムーンチャイルド」はゲイツがバンドと一緒に書いたもので、スライドギターはゲイツが弾いている。「ディディ・ワー・ディディ」は1966年4月頃に発売され、イギリス人DJ、ジョン・ピールの目に止まりターンテーブル・ヒット(ラジオで頻繁に流れるものの売り上げが伴わないもの)となった。しかしシングル2枚とも商業的成功は収められるず、A&Mを離れることとなる。

なお、アナログEP盤としての発売は1984年10月。

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SAFE AS MILK

セイフ・アズ・ミルク〈1967〉

THE LEGENDARY A&M SESSIONS
オリジナル・レーベル:Buddah(US),Pye International(UK)
プロデューサー:
Richard Perry & Bob Krasnow
エンジニア:Hank Cicalo, Gary Marker
録音時期:1967年4月
録音場所:
サンセット・サウンド,RCAスタジオ
発売:1967年9月(US),1968年2月(UK)

珠玉の楽曲で溢れる、記念すべきデビューアルバム

A&Mを離れたビーフハートは、カーマ・スートラ・レコードの西海岸支社長、ボブ・クラスノウの力を得ることができた。クラスノウはかねてよりデビュー曲「ディディ・ワー・ディディ」を気に入っており、カーマ・スートラの新レーベル、ブッダからの第一弾リリースとして、マジック・バンドのアルバムを発売することを望んでいた。

ビーフハートは以前から不満のあったギタリスト、ダグ・ムーンを追い出し、ライ・クーダー(g)が正式加入。またこのアルバムからジョン・フレンチ(ds)が加入した。ライ・クーダーの仕事はビーフハートのアイデアを音楽的に翻訳することだったようだ。ジョン・フレンチによれば、ライが『セイフ・アズ・ミルク』の音楽監督だったということだ。

ブルースを基調としながらもサイケやソウル、アフリカンなテイストまで滲ませた楽曲群により傑作アルバムとなった。ビートルズのジョン・レノンはこのアルバムがお気に入りだったよう。しかしこのような音楽をプロモーションするノウハウがカーマ・スートラになく、商業的成果は上げられなかった。

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STRICTLY PERSONAL

ストリクトリー・パーソナル〈1968〉

THE LEGENDARY A&M SESSIONS
オリジナル・レーベル:
Blue Thumb(US),Liberty(UK)
プロデューサー:Bob Krasnow
エンジニア:
Gene Shiveley, Bill Lazerus
録音時期:1968年4月25日〜年5月2日
録音場所:サンセット・サウンド
発売:1968年10月(US),1968年12月(UK)

ビーフハート流デルタブルース解体サウンドが聴けるセカンド

『イット・カムズ・トゥー・ユー・イン・ア・プレイン・ブラウン・ラッパー』という仮題が付けられた2枚組LPを制作する予定でレコーディングしていたが企画自体が頓挫し、1968年4月から5月にかけての8日間で『ストリクトリー・パーソナル』は録音された。

本作は、マネージャーのクラスノウがビーフハートに無許可でサイケデリックなミックスを施し発売してしまったもので、ビーフハートは不満足だったと言われてきた。しかし現在の情報だと、ビーフハートは最初は気に入っていたのだが、発売後のマスコミに不評だったことから、クラスノウに責任転嫁をしたとも言われている。

このアルバムあたりから非商業的な面持ちになり、強烈なエフェクト処理を用い、当時流行していたサイケデリックなサウンドになっている。1曲目「Ah Feel Like Ahcid」の〈アーシッド〉は「I said」の変形で駄洒落。ライ・クーダーは既に脱退しており、本作からジェフ・コットン(g)が参加している。

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MIRROR MAN

ミラー・マン〈1971〉

THE LEGENDARY A&M SESSIONS
オリジナル・レーベル:Buddah
プロデューサー:Bob Krasnow
録音時期:1967年10月/11月
録音場所:TTGスタジオ
発売:1971年4月(US),1971年5月(UK)

トラウト期前のマジックバンドの姿を捉えたコンピ盤

『イット・カムズ・トゥー・ユー・イン・ア・プレイン・ブラウン・ラッパー』用の音源から、ブッダが勝手にまとめて1971年に発表したアルバム。『ストリクトリー・パーソナル』のようなサイケデリックな味付けがなく、この頃のマジックバンドの姿を素直に堪能できる。

4曲で52分という長尺な曲でしめられた非商業的な作品で、呪術的グルーブとでもいうべき磁場で支配された音楽になっている。『ストリクトリー・パーソナル』収録の「Kandy Korn」「Son Of Mirror Man - Mere Man」の別ヴァージョンを収録。また「Kandy Korn」以外の曲はスタジオ・ライブとして録音された。

なお、1999年のブッダからの再発CD『The Mirror Man Sessions』には当時の未発表音源が収録されており、また収録しきれなかった音源は『セイフ・アズ・ミルク』の再発CDにボーナス・トラックとして収録された。

UKアルバムチャートは第49位を記録した。

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TROUT MASK REPLICA

トラウト・マスク・レプリカ〈1969〉

THE LEGENDARY A&M SESSIONS
オリジナル・レーベル:Straight(US),Straight/Reprise(UK)
※アメリカではBizarreからも少数発売された。
プロデューサー:Frank Zappa
エンジニア:Dick Kunk
録音時期:1969年3月/4月
録音場所:ホイットニー・スタジオ,エンセナーダ・ドライブ
発売:1969年7月(US),1969年11月(UK)

前人未踏、正真正銘の大傑作

レコード会社をフランク・ザッパが作ったストレート・レーベルに移籍し、ザッパのプロデュースで制作された。このアルバムではオリジナル・メンバーであった、アレックス・セント・クレアー(g)、ジェリー・ハンドリー(b)が抜け、代わりにビル・ハークルロード(g,fl)とマーク・ボストン(b)が加入。また数曲でビーフハートの従兄弟のヴィクター・ヘイドン(bcl)が参加している。ビーフハートはこのアルバムで各メンバーに、なんとも珍妙な芸名をつけた。それぞれ、ジョン・フレンチ(ds)はドランボ、ジェフ・コットン(g)はアンテナ・ジミー・シーメンス、ビル・ハークルロードはズート・ホーン・ロロ、マーク・ボストンはロケット・モートン、ヴィクター・ヘイドンはマスカラ・スネイクと生まれ変わり、衣装もビーフハートが考えたコーディネートに身を包むようになった。

このロック、ブルース、フリージャズなどの音楽要素が高度にミックスされた、彫刻的な音楽を創るにあたり、バンドは9ヶ月間、女・ドラッグなしの共同生活を送り、音楽を作り込んでいった。そして、このアルバムで特筆すべきことは、その作曲方法にあった。

まず、ビーフハートが共同生活の家に、これまで使ったこともないピアノを持ち込み、イマジーネションの赴くままに音の実験をする。それをジョン・フレンチが音楽的に翻訳し譜面化していくという前代未聞の作曲方法がとられた。アイデアはピアノではなく口笛で伝えられることもあったという。ジョン・フレンチは語る。「なにかの建物の土台を、一個ずつ大きさが違うレンガを積んで造っていくようなものだよ。最初の段(パート)が終わったら次の段を積み、全体がどうなるのか考えてみる。俺は、こんなことをさんざんやらされたんだ。」

また、オーネット・コールマンの『フリー・ジャズ』を聴いて感銘を受け、自分にも出来ると思い込みサックスを吹き始めた。ビーフハート以外のインプロヴィゼーションは一切禁止。譜面に基づいた各楽曲は、これしかあり得ないとでもいうかのような、緊張感がみなぎっている。

合宿生活でみっちり訓練したおかげで、レコーディングはほとんどがワンテイクでOK。リズム録り4時間、ボーカル録り2日、ミックスに1日の計4日ですべて完了したという。

商業的には、アメリカではヒットチャートにランクインしなかったが、イギリスでは第21位を記録した。

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LICK MY DECALS OFF, BABY

リック・マイ・デカルズ・オフ、ベイビー〈1970〉

THE LEGENDARY A&M SESSIONS
オリジナル・レーベル:Straight(US),CBS/Straight(UK)
プロデューサー:Captain Beefheart
エンジニア:Phil Schier
録音時期:1970年夏
録音場所:
ユナイテッド・レコーディング・コープ
発売:1970年12月(US),1971年1月(UK)

トラウトの創造性を受け継ぐ、純度の高いロック芸術

自身がプロデューサーを務め発表された作品。ギターのジェフ・コットンが抜け、ギターはビル・ハークルロード一人となった。また、マザーズ出身のアート・トリップ(芸名:エド・マリンバ)が加入、不気味で不穏なマリンバを聴かせてくれる。ギターインストが2曲収録されているが、どちらも類を見ない秀逸な作品で、その内の1曲「ピーオン」について、当時『メロディー・メイカー』誌は「ギターとベースがあまりに完璧に合っているため、これは譜面に書かれた作品であると思わざるを得ない。もしそうでなければ、ふたりのミュージシャンの脳髄がケーブルでつながっているのだろう」と評した。

またビーフハート自身は、このアルバムについて「あの音楽がなにを示しているかなんて、まったく関係ない。俺が、そういう風につくったんだからね。あの音楽について考えようとしても無駄だよ。すごいスピードで進んでいるし、どうなっているか考えたみたところで、通り過ぎていく電車や車を数えるような結果に終わってしまう。頭を働かせながら聴いてもダメなんだ。人間の頭というやつは常に活動しているものだけど、できるだけなにも考えないように努力すれば、釣りあげる魚の数はぐんと増えるのさ(笑)」と語っている。

UKアルバムチャートは第20位を記録した。

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THE SPOTLIGHT KID

スポット・ライト・キッド〈1972〉

THE LEGENDARY A&M SESSIONS
オリジナル・レーベル:Reprise
プロデューサー:
Don Van Vliet, Phil Schier
エンジニア:Phil Schier
録音時期:1971年秋
録音場所:レコード・プラント
発売:1972年1月(US),1972年2月(UK)

自らのルーツに帰還したブルース回帰作

ビーフハートはレーベルをストレートからリプリーズに移籍し、商業的成功を目論むべくブルース回帰の作品を制作した。ジャケット写真でのビーフハートの衣装はリプリーズからの前渡金をつぎ込んで新調してしまったものらしい。

マザーズ出身のギタリスト、エリオット・イングバーが加入。ドラムのジョン・フレンチは制作途中に脱退したが、10曲中8曲でドラムを叩いている。

内容はテンポのゆっくりとした曲が多く、初期のビーフハートっぽさと呪術的な雰囲気が合わさった独特な作品となった。なお、曲のテンポについては、元々はもっと速いスピードで演奏されていたのが、ビーフハートが歌詞が入りきらないのを防ぐためにテンポを落としてしまったとのこと。

『メロディ・メーカー』誌では月間のベスト・アルバムに選出され、UKアルバムチャートは第44位を記録した。

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CLEAR SPOT

クリア・スポット〈1973〉

THE LEGENDARY A&M SESSIONS
オリジナル・レーベル:Reprise
プロデューサー:Ted Templeman
エンジニア:Dann Landee
録音時期:1972年秋
録音場所:アミーゴ・スタジオ
発売:1973年1月

テッド・テンプルマンがプロデュースのパワフルで華やかな充実作

前作に引き続き、ブルースに傾倒したアルバム。プロデューサーにテッド・テンプルマンを迎えて制作され、それ以前の作品よりずっと口当たりの良い音楽となった。メンバーはベースにマザーズ出身のロイ・エストラーダが加入、それまでのベースだったマーク・ボストンはギターにチェンジした。ゲストにはラス・タイトルマン、ミルト・ホランドの他に、女性ソウル・グループ、ザ・ブラック・ベリーズがバック・コーラスで参加している。

テンプルマンのプロデュースでサウンドは明瞭になり、タイトな演奏もあっていわゆる「カッコイイ」ロックとなった。ホーン・セクションや女声コーラス入りの曲など、これまでになかった華やかさがある一方で、ギターとマリンバが絡む楽曲などユニークなビーフハートらしさも味わえ充実した作品となった。作曲は口笛やハーモニカ、ギターリフなどをもとに行われ、ピアノは使われなかったという。

内容的には楽しい作品にしあがったが、なぜか商業的には失敗に終わってしまった。UKアルバムチャートはランクインせず、USアルバムチャートは第191位を記録した。

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UNCONDITIONALLY GUARANTEED

アンコンディショナリー・ギャランティード〈1974〉

THE LEGENDARY A&M SESSIONS
オリジナル・レーベル:
Virgin(UK), Mercury(US)
プロデューサー:Andy DiMartino
エンジニア:John Guess, Jim Callon
録音時期:1974年初頭
録音場所:ハリウッド・サウンド
発売:1974年4月

商業路線を推し進めたサザン・ロック・アルバム

レコード会社をリプリーズからマーキュリーに移籍。イギリスではヴァージンが契約をした。ヴァージンの社長リチャード・ブランソンは昔からビーフハート・ファンだったとのことだ。

本作では久しぶりにオリジナル・メンバーのアレックス・セント・クレアー(g)が復活。ロイ・エストラーダ(b)は抜け、マーク・ボストンが再びベースに戻った。商業的成功を目指したアルバムであるが、ビーフハートらしさのない凡庸な音楽となってしまった。後に評論家のレスター・バングスは「ビーフハートの音楽の息の根を、このアルバムは止めかけてしまったのだ」と述べた。

そして、このアルバムを最後にビーフハートに愛想を尽かし、ライブツアー直前にメンバー全員が脱退してしまう。そこで急遽、ミュージシャンを集めてツアーにでることとなった。この新マジック・バンドは通称トラジック(悲劇の)・バンドと呼ばれている。なお、脱退したメンバー達はマラードというバンドを結成した。

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BLUEJEANS & MOONBEAMS

ブルージンズ・アンド・ムーンビームズ〈1974〉

THE LEGENDARY A&M SESSIONS
オリジナル・レーベル:
Virgin(UK), Mercury(US)
プロデューサー:Andy DiMartino
エンジニア:Greg Ladangi
録音時期:1974年夏
録音場所:ストロングホールド・サウンド・レコーダーズ
発売:1974年11月

ビーフハートに無許可で発売されてしまったアメリカン・ロック・アルバム

前作を最後に黄金メンバー全員に去られ、ライブツアーでのメンバー、マイケル・スマザーマンとディーン・スミス、タイ・グライムズが居残り、新たなメンバーを迎え録音した音源を、マーキュリーがビーフハートに無許可で編集/発売してしまった作品。

アメリカ南部風味のロック作品で、70年代のウェストコースト・ロックのようでもある。エリック・クラプトンがリスペクトしたことで知られるJ.J.Caleのカバーが収録されている。ビーフハートらしさが失われてしまったことや、無許可で発売されてしまったこともあってか、一般的な評価は最悪となってしまった。

ジャケットのイラストレーションは従兄弟のマスカラ・スネイクことヴィクター・ヘイドンが描いた。女声コーラスの入ったのどかなインストゥルメンタル「キャプテンの休日」という曲が収録されているが、皮肉にも本作発表後、北カルフォルニアの自宅に戻り隠棲生活を送ることとなった。

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BONGO FURY (ZAPPA/BEEFHEART/MOTHERS)

ボンゴ・フューリー〈1975〉

THE LEGENDARY A&M SESSIONS
オリジナル・レーベル:DiscReet
プロデューサー:Frank Zappa
エンジニア:Kerry McNab, Mike, Braunstein, Kelly Kotera, Mike Stone, Davey Moire, Frank Hubach
録音時期/録音場所:アーマディーロ・ワールド・ヘッドクオーターズ/1975年5月20日〜21日(ライブ録音),レコード・プラント/1974年〜75年
発売:1975年11月(US)

ザッパとの共演ライブ盤

ビーフハートは『ブルージーンズ・アンド・ムーンビームズ』を発表後、北カルフォルニアの自宅で隠棲生活を送っていた。そんな窮地を救ったのは旧友ザッパであった。まず、ザッパの傑作『ワン・サイズ・フィッツ・オール』(1975)にブラッドショット・ローリング・レッドの変名、ハーモニカでゲスト出演した後、1975年4月からのザッパのボンゴ・フューリー・ツアーに参加。本作はその時の模様をまとめたもので、一部スタジオ録音を含んでいる。ビーフハートは5曲でヴォーカルを務めている。

アルバムジャケットには担当として、ハープとヴォーカルに加え、ショッピング・バッグがクレジットされているが、これはビーフハートの癖をしるしたもの。ビーフハートは紙袋に書き散らした詩を溜めこむ習慣があり、ツアー中、紙片と画材をショッピング・バッグに入れ持ち歩いていたとのことだ。ステージ上で自分の出番を待つ間、絵を描くこともあったようだ。

内容はザッパ主導の音楽の中でビーフハートが逞しく吠えまくっている。1曲目「Debra Kadabra」での不気味さと祝祭的ムードがないまぜとなったマザーズの演奏と、ビーフハートのヴォーカルが炸裂したさまは、まさに奇天烈ロック。

USアルバムチャートは第66位を記録した。

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BAT CHAIN PULLER

バット・チェイン・プラー〈2012〉

THE LEGENDARY A&M SESSIONS
プロデューサー:Captain Beefheart
エンジニア:Kerry McNab
録音時期:1976年春
録音場所:パラマウント・スタジオ

お蔵入りにされていた幻の名盤

1976年にリリースを予定していたにも関わらず、ザッパとレコード会社の契約トラブルでお蔵入りされていたアルバム。2012年にザッパサイド所有のオリジナルマスター音源からボーナストラック3曲入りで公式発売された。このアルバムの収録曲のほとんどは、後のアルバム『シャイニー・ビースト』『美は乱調にあり』『烏と案山子とアイスクリーム』に再録音され分散収録された。

低迷していたビーフハートの復活に向けたメンバーはジェフ・モリス・テッパー(g)、デニー・ウォーリー(g)、ジョン・トーマス(p,kbd,syn)、ジョン・フレンチ(ds,g)。タイトル曲は、ビーフハートが踏切で録音した車のワイパー音と電車の通過音、口笛をもとにジョン・フレンチがドラムパートを作り上げたという。

このメンバーで創りだした土俗的なサウンドは、縄文土器のようなプリミティブな美を感じさせ、実験性以前に魂の芸術家というビーフハートの気質を再認識させる傑作となった。

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SHINY BEAST (BAT CHAIN PULLER)

シャイニー・ビースト(バット・チェイン・プラー)〈1978〉

THE LEGENDARY A&M SESSIONS
オリジナル・レーベル:
Virgin(UK), Warner Brothers(US)
プロデューサー:
Don Van Vliet, Pete Johnson
エンジニア:
Glen Kolotkin, Jeffrey Norman
録音時期:1978年6月6日〜8月27日
録音場所:オートマット
発売:1978年秋(US),1980年2月(UK)

ビーフハート・ミュージックの復活作!!

1976年、『バット・チェイン・プラー』として自身のプロデュースで発売する予定のアルバムがあったのだが、ザッパとレコード会社の契約上のトラブルでお蔵入りとなってしまった。その『バット・チェイン・プラー』収録の5曲と新曲を、メンバーを入れ替えた新生マジックバンドとして録音、制作されたのが本作『シャイニー・ビースト』。そのようないきさつがあるためか、副題は「バット・チェイン・プラー」となっている。

メンバーはエリック・ドゥルー・フェルドマン(b,kbd,p,syn)、ロバート・アーサー・ウィリアムズ(ds,perc)、リチャード・リーダス(acc,b,g)、ジェフ・モリス・テッパー(g)という新しいメンバーに、マザーズ出身のアート・トリップ(perc,marim)、ブルース・ファウラー(air bass,tb)という布陣。あたらしく加わったメンバー達は皆、『トラウト・マスク・レプリカ』を聴いて育った世代で、ビーフハートの大ファンであったという。ここでは例のピアノや口笛の断片アイデアを元にした作曲方法が蘇り、新しい若いメンバーを得て、ビーフハート・ミュージックが見事復活。テンション高い演奏で、シャープな手触りでありながらポップで楽しい音楽にしあがった。

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DOC AT THE RADAR STATION

美は乱調にあり〈1980〉

THE LEGENDARY A&M SESSIONS
オリジナル・レーベル:Virgin
プロデューサー:Don Van Vliet
エンジニア:Glen Kolotkin
録音時期:1980年6月
録音場所:サウンド・カッスル・スタジオ
発売:1980年8月

絶好調、乱調の美学ここにあり!!

邦題『美は乱調にあり』。メンバーは前作に引き続き、エリック・ドゥルー・フェルドマン(b,kbd,p,mellotron,syn)、ロバート・アーサー・ウィリアムズ(ds)、ジェフ・モリス・テッパー(g)、ブルース・ファウラー(tb)に、ゲイリー・ルーカス(g,frh)、そしてジョン・フレンチ(ds,b,g,marim)が復活。ジョン・フレンチにとっては最後の参加作となり、2曲でドラム、1曲でベース、またギターやマリンバも担当した。

内容は邦題にあるように、ビーフハートならではの乱調美が絶好調で、フリーキーでハイテンションな作品となった。また、幻のアルバム『バット・チェイン・プラー』からは3曲がそれぞれ再録音された。マスタリングはニューヨークのCBSスタジオで行われたが、カッティング作業の際、高すぎる音量レベルに設定されていたビーフハートのヴォーカルが、過度の摩擦と高熱を発生させ煙がでてしまったという逸話が残された。

プレスからの評価は上々で、『ダウンビート』誌は四つ星半という評価をし、『ニューヨーク・タイムズ』紙は80年度アルバム・ベスト10の第8位に選出した。

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ICE CREAM FOR CROW

烏と案山子とアイスクリーム〈1982〉

THE LEGENDARY A&M SESSIONS
オリジナル・レーベル:Virgin(UK), Epic(US)
プロデューサー:Don Van Vliet
エンジニア:Phil Brown
録音時期:1982年5月/6月
録音場所:ワーナー・ブラザーズ・レコーディング・スタジオ
発売:1982年9月

美しい野獣の最終作

幻のアルバム『バット・チェイン・プラー』や過去の未発表曲の再録に新曲が加わる形で制作された。メンバーはジェフ・モリス・テッパー(g)、ゲイリー・ルーカス(g)にリチャード・ミッドナイト・ハットサイズ・スナイダー(b,marim,va)、クリフ・マルティネス(ds,perc)が新たに加わった。エリック・ドゥルー・フェルドマン(kbd,syn)も1曲で参加しているが、これは『ドク』セッションの音源がもとになったもの。

サウンドは荒野を感じさせ、ビーフハートの歌唱やポエトリーリーディングと緻密なインストが絡む様は、知的で美しい野獣のようでもある。新曲においても創造性は衰えることなく、アブストラクトで分類不能なビーフハートでしかありえない音楽となった。反復リズムのないギター曲「イブニング・ベル」をゲイリー・ルーカスは約6週間かかって覚えたという。

この頃のビーフハートは人前で演奏することに嫌気がさしており、ライブツアーは行われなかった。タイトル曲のビデオが制作され、テレビCMの原案までつくったが、実際にCM制作がされることはなかった。そして、ビーフハートは音楽活動を停止し、画家活動に専念することとなった。

UKアルバムチャートは第90位を記録した。